
私が移住した2003年ころのマレーシアは、マハティール政権の最終盤で政治は安定、経済はアジア通貨危機から回復し、街は高層ビル建設と都市インフラ整備が進んでいた時期です。
特に「ペトロナス・ツインタワー」を象徴に、KL(クアラルンプール)は“近未来的な都市”として国際的に注目されていました。
マハティール元首相の「Look East(ルックイースト)」は多くの方がご存じで、首相時代に大隈講堂で講演した内容は感動的で有名です。その早稲田大学には息子さんも娘さんも留学しています。
今回は皆さんもよくご存じでしょうが、私が敬愛するマハティール元首相を紹介します。
🏢 マレーシアの父~偉大なマハティール元首相

マハティール・モハマド(Mahathir Mohamad)は、マレーシア政治史を語る上で欠かせない指導者で、長期政権と復帰劇で世界的にも注目された人物です。
貧困に値する時代の、マレーシアの経済発展を主導したカリスマ的リーダーで、2026年現在は政界引退していますがお元気です。
以下に「不屈で忍耐強い」足跡をまとめた略歴を掲載しました。
| 生年月日 | 1925年7月10日(9人兄弟の末っ子。父はインドから移住した英語教師) |
|---|---|
| 出身地 | アロースター(現マレーシア・ケダ州~当時はイギリス領。1942年から日本が統治) |
| 職業 | 医師(シンガポールの医大卒業。医師の資格を取得) |
| 1953年 | 故郷のアロースターで貧困層対象の医院を開業 |
| 1963年 | マレーシア国家が成立。翌1964年4月25日に実施された総選挙において、ケダ州から選出され、下院国会議員となった。1965年には統一マレー国民組織(UMNO)の最高評議会の委員に選出されている。 |
| 1964年 | 国会議員に初当選 |
| 1970年 | 内閣入りし、教育相・副首相などを歴任 |
| 1981年 | マレーシア第4代首相に就任。マレーシアで初めて王族以外の平民出身の首相となった。それ以後、マハティールは与党統一マレー国民組織(UMNO)を率いて、2003年までの22年間、首相を務めた。 「ルックイースト政策」発表 |
| 1989年 | 心臓バイパス手術を受けたがまもなく公務に復帰。5月半ばからはアメリカ合衆国、イギリスを訪問するなど、精力的な活動を続けた。 |
| 2001年 | アメリカ同時多発テロ事件直後、イスラーム教国のリーダーとしては真っ先にテロを非難した。イスラーム過激派タリバーンに対して厳しい批判的立場であったが、一方でアメリカの「テロとの戦争」に対しても「無関係の市民に対する攻撃だ」と非難している。 |
| 2003年 | 政界からいったん引退したが、2010年代に入ると再び政治的な存在感を増してきた。 |
| 2008年 | マレーシア下院議員選挙で野党連合が過半数を獲得。マハティール元首相が勝利宣言。建国以来初の政権交代となった。自身もケダ州から立候補し当選、下院議員復帰を果たした。 この年、国王ムハンマド5世から新政権の首相に任命され、15年ぶりに政府首班の地位に返り咲いた。年齢90代の人物が選挙で勝利し国家指導者に就任した例は世界でもほとんどない。 |
| 2020年 | 連立与党内はマハティール続投を求める勢力とアンワルへの早期禅譲を求める勢力の対立が激化し、混乱の責任を取る形で2月24日、国王アブドゥラに辞表を提出した。 |
| 2020年 | 記者会見で、高齢を理由に次の連邦議会下院の総選挙に立候補せず、国会議員を引退する意向を明らかにした。 |
| 2025年 | 100歳を迎え、さらに近年は心臓に持病を抱えていることからバイパス手術を受けるなど入院をたびたび繰り返して健康状態が不安定となっている。 |
| 2026年1月 | 自宅を移動中に転倒して右股関節を骨折して救急搬送され、入院。 |

2002年のマレーシアにおける選挙の様子。ジョージタウンにある「UMNO」の政党本部の画像。与党連合でマハティール首相の「国民戦線(Barisan Nasional)」が再び圧倒的な支持を得て勝利を収めました。
国民戦線は議会の3分の2以上の議席を確保し、強固な支配体制を維持しました。この結果、マレーシアの政治は引き続き与党主導で進行し、経済発展や社会政策が重点的に推進されることとなりました。
🏙️ ペトロナスタワーの意義

ペトロナスツインタワーは、マハティールが描いた“近代マレーシア”の象徴であり、彼の政治的ビジョンと国家戦略を具現化した建築物。
1998年当時の「世界一の高さ」は、その象徴性を最大限に高めるための重要な要素でした。
マハティール元首相とペトロナス・ツインタワーの関係は、「国家の近代化を象徴するプロジェクトを、彼自身の強い政治的リーダーシップで推進した」という点に集約されます。1998年の完成時には“世界一高いビル”として、彼の国家ビジョンを体現する存在でした。
🏛 マハティール元首相が果たした中心的役割

- 国家プロジェクトとしての建設を主導
ペトロナスツインタワーは、当時の首相マハティールが掲げた「マレーシアを先進国へ」という国家ビジョン(Vision 2020)の象徴として建設されました。
※豆知識ですが、マレー語で「石油」は「petroleum」または「minyak」と訳されます。 - 資金源として国営石油会社ペトロナスを活用
ペトロナスは国営石油会社(マレー語の「PETRONAS)であり、タワーの建設費用を含む大型国家プロジェクトの資金源として重用されました。 (マレーシアは現在でも産油国) - なぜツインタワーが重要だったのか
1990年代のマレーシアは急成長期で、マハティールは「国際都市クアラルンプール」を世界にアピールしたかったという思惑がありました。
その象徴として、世界一の高さを持つツインタワーを建設することは極めて戦略的でしたし、その期待は見事に遂げられたのです。
- ペトロナスツインタワーは1998年から2004年まで世界で最も高い建築物でした。
- 設計はアルゼンチン出身の建築家シーザー・ペリ。
- イスラム幾何学をモチーフにしたデザインは、マレーシアの文化的アイデンティティを世界に示す意図があり、マハティールの国家観と一致していました。
- 1990年代のKLは急速に変貌し、高層ビル建設ラッシュが続いていました。
- BBCも「マハティールはクアラルンプールのスカイラインに大きな足跡を残した」と報じています。
- ツインタワーはその象徴的存在であり、KLCC(クアラルンプール・シティセンター)再開発の核となりました。
🗻 「ルックイースト政策(日本を見習え)」早稲田・大熊講堂
マレーシアのマハティール・モハマド元首相は、自国の発展に向けた「ルックイースト政策」を提唱し、日本や韓国の成功モデルを取り入れることで成果を上げました。彼が日本国内で行った演説は、その政策の重要性を伝える場として注目されました。

講演では、敗戦国日本がたった23年という短期間で、不死鳥のごとく世界のGNP第2位になるまでの苦労と成長の記録を力説しました。
講演終了時には満場の拍手があったそうです。
日本の勤勉さ、規律、そして高い教育水準が経済成長を支える基盤であることに加え、マレーシアがこれらの価値観を取り入れることで、持続可能な成長を実現できるとの信念を述べています。
特に、日本の精神面や労働倫理が、マレーシアの産業発展において模範的であると語っています。
さらに、マハティール首相は両国間の協力強化を訴え、技術移転や教育分野でのパートナーシップの拡大を呼びかけました。
この演説は、日本とマレーシアの関係を深化させる重要な一歩となり、現在でもその影響が感じられます。
このように今日に至っても彼の演説は、単なる政策説明にとどまらず、文化的価値観と経済発展の結びつきを示す貴重なメッセージとして評価されています。

マハティール元首相は1961年の初来日を皮切りに何度も日本を訪れており、チョー級の親日家なのよ。日本に関する著書を出したり、あるいは政治に関わらない時代に日本人と共同でベーカリー会社を経営するなど日本人以上に日本が好きな方なんです。
🎙️ 国産車プロトン(Proton)の設立
マレーシアのマハティール元首相は、1980年代から国家の近代化と経済成長を目指し、車社会の実現を積極的に推進しました。その象徴とも言えるのが、国産車プロトン(Proton)の設立です。
これは、国内の自動車産業を育成し、技術力を高めることで、工業化国家としての地位を確立するというビジョンの一環でした。車社会の導入は、都市化の進展や中産階級の増加と相まって成功を収め、多くの国民に移動の自由と利便性を提供しました。
一方で、鉄道に対する視点はやや異なります。マハティール氏の政策では、鉄道はあくまで補完的な交通手段と見なされる傾向がありました。
特に都市間輸送や貨物輸送では重要性が認識されていたものの、都市内交通では車社会が優先されました。その結果、鉄道インフラの整備は後回しとなる場面もありました。
総じて、マハティール元首相の政策は自動車産業を中心とした経済成長を重視しつつ、鉄道はその補完的役割として位置づけられていたと言えます。
画像はPROTON社のPRから(https://www.proton.com/)
🏠 マハティール元首相の生家を訪ねた
マハティール・モハメド元首相の生家(出生地)は、現在も保存されている歴史的建物で、彼の「質素な出自」を象徴する場所として知られています。すこし詳しく整理して解説します。

- 所在地:アロースター(マレーシア・ケダ州)
- 住所:Lorong Kilang Ais(キラン・アイス通り)18番地
この地域は当時、いわゆる「カンポン(農村的集落)」で、現在の都市部とは異なり、非常に質素な伝統家屋で素朴な住宅地でした。
- 建築:1900年前後に建てられた木造家屋
- 高床式(床が地面より高い)
- 木の床・壁
- ニッパヤシ(椰子)の葉の屋根
- 1部屋+ベランダのみ
- 前に階段もない簡素な造り
- 電気もない生活環境だった
👉現在の国家指導者のイメージとは対照的に、かなり質素で農村的な家庭環境でした。

- 幼少期から青年期までこの家で生活
- 結婚するまで居住
- ティティ・ガジャ(郊外)に自宅を構える
- ただし結婚後も頻繁に実家を訪れていた
- 1992~1993年:
- マレーシア国立公文書館が取得・修復して現在
- 「マハティール生家(Rumah Kelahiran Mahathir)」として公開(博物館として保存)
- 入場無料の小規模ミュージアム
- 展示内容は幼少期の写真、家具や生活用品
- 学生時代・医師時代の資料、若い頃の自転車など
また敷地内には、彼の政治・医師時代を紹介する展示施設も併設されています。
- 生家そのものは当時の姿を再現
- 周囲は整備され、観光施設化
- かつてのカンポン的景観は一部失われている
- この生家は単なる観光地ではなく、「農村的・質素な家庭出身のリーダーの生家」というマハティール元首相の政治的イメージを象徴する場所です。




<ランカウイにマハティール元首相の記念館がありますが、画像が見つかったらご覧に入れます>
