
松戸市にある戸定邸(とじょうてい)に行ったことがありますか?
じつはこの歴史的建築物は徳川ゆかりの邸宅で、全国でもたった一か所だけ残っている国指定の重要文化財であり名勝庭園なのです。
幻の将軍とも言われた水戸藩最後の藩主・徳川昭武が、なぜ明治時代にこの地を選んで邸宅を構えたのか。その理由は、単なる偶然ではなく、「家族への想い」「趣味」「実利」の3つのポイントが重なった場所にありました。
このお屋敷の幾多のエピソードを紹介する前に、幕末を生き抜いた徳川慶喜の弟「徳川昭武」という人物から紹介しましょう。
徳川家の集合場所だった戸定邸はなぜ松戸に?

近年、「徳川昭武」という人物が一番身近に感じられたのは、渋沢栄一(吉沢亮)をテーマにしたNHKの大河ドラマ『青天を衝け』ではないでしょうか。
徳川慶喜(草なぎ剛)の弟。「プリンス・トクガワ」の名で知られる徳川昭武(松平昭徳)/板垣李光人は、第9代水戸藩主・徳川斉昭(竹中直人)の十八男として登場しました。
彼は慶喜の異母弟にあたり、幼名は余八麿から松平昭徳へ。歴史では将軍となった慶喜の名代としてパリ万国博覧会へ出向くことになり、随行した栄一(会計主査)と特別な絆を結んだことが大河ドラマの中でも描かれていました。
しかし運には恵まれず、大政奉還によって帰国を余儀なくされ、最後の水戸藩主となったわけですね。
1867年、フランスのパリで開催された万国博覧会は、産業革命の成果を展示する場であり、多くの国が参加しました。
日本はこの万博に初めて公式に参加し、西洋の文化や技術を学ぶ貴重な機会となったのです。

この時のパリ万博は、日本の文化や産業を大々的に紹介しましたね。伝統工芸品や農産物などが注目され、同時に他国の技術や商業のあり方を直接観察し、徳川昭武はじめ全員が異文化交流の重要性を実感することになったのです。
大河ドラマにも登場した「戸定邸」の役割

このように、昭武や渋沢栄一のパリ万博での経験は、ふたりの人生における重要な転機であり、日本の近代化に向けた大きな一歩となったのです。ドラマでは、彼の成長や苦悩、そして成功が描かれ、視聴者に感動を与えるストーリーが展開されました。
前述のように昭武にとって、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は異母兄にあたります。
もともと昭武は水戸徳川家の当主として、水戸と東京を頻繁に行き来する必要がありました。
慶喜はのちに静岡に隠居するのですが、後に東京へ移ります。
松戸は東京(日本橋や上野)から程よい距離にあり、慶喜もしばしばこの戸定邸を訪れ、兄弟で趣味のカメラや自転車の遠出とか狩猟を楽しんでいました。
松戸の「戸定邸」は、いわば「徳川一族がプライベートで集まれる拠点」としての役割があったのです。

昭武と渋沢栄一の関係を辿ると子どもたちの代でも交流は続きました。
明治41年(1908年)8月に、渋沢の二男・篤二が従兄とともに避暑先の昭武を訪問し、昭武が2人の写真を撮影しています。
また、渋沢邸を訪ねた昭武の二男・武定は、栄一から幕末の頃の話を聞き、記念の書を贈られています。
つまり、渋沢栄一と徳川昭武は親密な交流を続けていたものの、その場は主に東京であり、松戸の戸定邸に栄一が足を運んだ記録はない、ということです。
徳川昭武の一生は波乱万丈だった
昭武について、その足跡をざっくり年表で紹介しましょう。
| 年(西暦) | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1853年 | 0歳 | 江戸駒込・水戸藩中屋敷に生まれる(父:徳川斉昭の十八男)、幼名は余八麿 |
| 1863年 | 10歳 | 上京し佐幕活動に従事、従五位下・侍従・民部大輔(民部公子)に任官 |
| 1864年 | 11歳 | 天狗党討伐に出陣。一軍の将として出陣する。 |
| 1866年 | 13歳 | 家茂死去のため「昭武」と改名、清水徳川家を相続。パリ万博の将軍名代として渡欧 |
| 1867年 | 14歳 | 万博終了後は幕府代表としてスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスを訪問。その後はパリで留学生活。当時は『徳川昭武幕末滞欧日記』に残されている。 |
| 1868年 | 15歳 | 戊辰戦争の勃発を受け、新政府の命令で帰国 |
| 1869年 | 16歳 | 第11代水戸藩主に就任。版籍奉還により水戸藩知事となる |
| 1871年 | 18歳 | 廃藩置県により免職、東京へ移住 |
| 1874〜1876年 | 20代前半 | 初期の陸軍戸山学校の教官として生徒隊に軍事教養を教授。栄姫(のちの瑛姫)と結婚。アメリカ万博御用掛として渡米後、再びフランス留学へ |
| 1881年 | 27歳 | 帰国、従三位に叙される |
| 1883年 | 29歳 | 水戸徳川家家督を甥・篤敬に譲り隠居。1月に長女・昭子が生まれるが妻が死去。5月に隠居願を提出し、甥の篤敬に家督を譲った。 |
| 1884年 | 30歳 | 生母秋庭(万里小路睦子)を連れて戸定邸に移転。静かな老後の生活が始まった。 |
| 1892年 | 38歳 | 実子・武定が子爵となり松戸徳川家が成立 |
| 1902年 | 48歳 | 正二位に叙位 |
| 1910年 | 56歳 | 死去(享年58)。諡号は「節公」 |

パリ万博の時、昭武が選ばれた理由は、フランスのナポレオン3世の皇太子(プティ・プランス)が当時10歳だったので、年が近い方がよいという判断だったのよ。でもね、これには水戸藩士からは猛烈な反対があって、水戸藩の縁を切る意味で会津の松平容保との養子縁組も解消されたの。
昭武が老後を過ごした風光明媚な「戸定ヶ丘」
個人的な筆者の想像ですが、おそらく何度か水戸街道を往復するうちに、松戸の小高い丘の上にあるこの地に目をつけたのでしょうね。
この松戸の「戸定」という地名を調べてみると以下の通り。
- 戸定邸のある高台は、かつての松戸城(松浪城)の外郭=外城(とじょう)にあたる場所。
- この「外城(とじょう)」が転じて「戸定(とじょう)」になったとされます。
- 明治期にはすでに「戸定」という地名が使われており、 「戸定にある邸宅 → 戸定邸」という素直な命名です。

国指定名勝。「旧徳川昭武庭園(戸定邸庭園)」。住宅として残っている建物も、明治時代に建てられた国指定重要文化財。徳川家の「住まい」がほぼ完全に残るのはもうここだけです。
昭武はフランス留学を経験しており、美意識の高い人物でした。
戸定邸が建てられた高台(戸定ヶ丘)からは、当時は遮るものもなく江戸川の流れや富士山を一望することができました。
座敷からは庭園越しに富士山が見え、庭園はサツキの洋芝を取り入れた近代風。
この庭園は当時にはなかった洋風庭園で今でも素晴らしい。
与謝野晶子が和を感じさせる庭園で和歌『松戸の丘』に詠んでいます。
今は千葉大学園芸学部(ちょっと珍しい)の用地内にあり、西洋式庭園を築いて植栽を手がけています。
🌿 「松戸の丘」はどんな内容の短歌なの?
舞台は当時の園芸学校で、フランス式・イタリア式・イギリス式などの庭園があり、 晶子はその色彩豊かな花畑を歩きながら短歌を詠んだとされています。
晶子の歌は、松戸の丘に広がる花畑を絵画のような色彩感覚で描きます。
🏵️「時は午路の上には日影散り 畑の土には雛罌粟(ひなげし)の散る」 → 強烈な白い日光と真紅のひなげしが交錯する“色彩の二重奏”と評される。
🏵️「いろいろの波斯(ペルシヤ)のきれを切りはめて 丘に掛けたる初夏の畑」 → 多彩な花畑をペルシャ更紗のような模様に見立てた歌。
🏵️「花園は女の遊ぶ所とて 我をまねばぬ一草もなし」 → 花畑の中で“女である自分”を喜び、花々に挨拶するような感覚を詠む。
🏵️「丘の上 雲母(きらら)の色の江戸川の 見ゆるあたりの一むらの罌粟(けし)」 → 松戸の丘から江戸川を望む風景と、ひなげしの群れを重ねた歌。(歌碑にある代表作)
これらの短歌は『明星』第五巻第二号(大正13年7月)に50首掲載され、残りの10首は「或る日」として『週刊朝日』に掲載。後に歌集『瑠璃光』などに収録されました。
徳川家断絶が決定!
2017年からはかなり改修されて、全体的に狭くなってしまいました。ちょっと残念。
「戸定邸」のある一帯が「戸定が丘歴史公園」ですが、かつては約3倍の広さの敷地が徳川家のものでした。

2026年2月、「徳川慶喜家が墓じまい】どうする補修費3000万円、遺品6000点…権利を主張する親族とは話し合い8年の “お家騒動”」こんなニュースにビックリ!!
江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜家の墓じまいは徳川の家系が途絶える!というのですからね、驚きますよ。
慶喜の玄孫(やしゃご)が「絶家」と「墓じまい」を決めたワケについて調べてみました。
台東区にある都立谷中霊園内に約300坪の敷地を有する江戸幕府最後の将軍(15代)徳川慶喜の墓所は都指定史跡の文化財だが、墓所は一般公開されておらず、鍵は子孫が代々、管理してきたようです。
2017年に4代目の慶朝が死去し、徳川姓を名乗る男子がいなくなったことがその理由の一つ。葬儀も参列者はわずか10人ほどだったとか。墓に入る人もいなくなり絶家が決定したそうです。
徳川の息遣いがわかる「戸定邸」

公園内には徳川昭武や徳川慶喜のゆかりの品を展示する「戸定歴史館」や、昭和年代に造られたお茶室「松雲亭」、芝生の広場などがあります。
毎月0と5のつく日は庭園へ降りて振り返るとお屋敷が眺められます。かつてはこちらのお屋敷の庭で「菊の展示会」なども行われました。
左の画像は中庭にあたり、昭武がながめたであろう光景が今も残っています。
この美しい景観が、隠居後の静かな生活を望んでいた昭武の心に響いたことでしょう。
広大な敷地での「昭武のセカンドライフ」
昭武は「趣味人」として知られ、写真、狩猟、園芸、さらには自転車など、多才な人物でした。
- 狩猟: 周辺には小金原などの広大な野原があり、鷹狩りや狩猟を楽しむのに適していました。
- 庭園: 現在も残る名勝「戸定邸庭園」を見ればわかる通り、広大な敷地で自ら植物を育てるなど、趣味を極めるための空間が必要だったのです。
戸定邸の庭園が「関東の富士見百景」に選ばれている理由と、徳川昭武が撮影した写真について詳しく解説します。

戸定邸の庭園(旧徳川昭武庭園)が選出されている最大の理由は、その圧倒的な借景(しゃっけい)の美しさにあります。
- 絶好のロケーション: 庭園は江戸川を見下ろす高台(戸定ヶ丘)の端に位置しています。西側に大きく開けているため、天気が良ければ江戸川の向こうに富士山の雄大な姿を遮るものなく望むことができます。
- 歴史的・文化的な眺望: 明治時代、昭武やその兄・慶喜もこの場所から富士山を眺めていました。当時の皇族や華族たちが愛した「歴史ある風景」が、現代でも大切に保存されている点が評価されています。
- 書院造の建物との調和: 屋敷の畳に座って庭を眺めると、庭園の木々と富士山がまるで一幅の絵画のように重なり合うよう設計されています。

昭武は、日本におけるアマチュア写真家の先駆者の一人として知られています。彼は戸定邸に暗室を作り、自ら現像も行うほどの熱中ぶりでした。
昭武が残した写真は、当時の風景を知る上で非常に貴重な史料です。
- 家族の日常: 兄・徳川慶喜が戸定邸を訪れた際のくつろいだ姿や、子供たちの成長記録。
- 風景写真: 庭園からの眺めや、周囲の田園風景、江戸川の様子など。
- 静物・趣味: 自身が育てた植物や、珍しい海外の品々。
特に、昭武と慶喜が二人でカメラを構えて並んでいる写真は、徳川家が新しい時代の技術を積極的に楽しんでいた様子を伝えてくれます。
戸定邸に併設されている「戸定歴史館」では、昭武が実際に使用したカメラや、彼が撮影した膨大な写真コレクションが定期的に展示されています。明治時代の空気感をそのまま閉じ込めたようなモノクロームの世界は、一見の価値があります。
ぜひ一度、空気が澄んだ日の午前中に足を運んで、昭武と同じ視線で富士山を眺めてみてはいかがでしょうか。

昭武にはさまざまなエピソードが残されています。そのひとつを紹介します。
昭武は1度目のパリ留学中に日記をつけており、先ほどもちらっと触れましたが、『徳川昭武幕末滞欧日記』としてまとめられました。
その中には「朝8時、ココアを喫んだ後、海軍工廠を訪ねる」との一文があり、これは日本人で初めてココアを飲んだ記録とされています。








