「長嶋茂雄」さんは、たくさんの日本人の心の中に住み続けている偉人です。
そんな伝説の方に恐れ多い話ですが、私にも小さな、ちぃ~さな思い出があります。
目の前に現れた長嶋さんの思い出

日本の太平洋戦争が終結したのは1945年8月15日です。私はその2年後に生まれました。
日本中が失意と貧困に喘いでいたのかもしれませんが、少年時代の子供達には無縁でした。どの子も同じ、とにかく日々遊ぶことしか考えていませんでした。
少年時代の男の子の遊ぶことといえばまず「野球」、学校から帰ると全員集合しては「プレーボール」の毎日です。イラストのようなユニフォームがあるわけでもなく、粗末な服装でした。
現代のようにほかのスポーツは少なく、あの当時の少年たちは今の子供とちょっと違うようです。『三つ子の魂百まで』、大人になっても、年老いた今でも「野球愛」は体の奥深くにしみ込んでいます。
そっと小箱にしまい込んだ思い出
思い出の日の5日前の11月9日。この日は、読売新聞にとって忘れられない日でしょう。
あの正力松太郎さんが亡くなった日であり、奇しくもこの日は、読売ジャイアンツがセントラル・リーグを制覇(5連覇)した日でした。
当時の私は22歳、ふとした縁があって正力さんの葬儀に参列するよう上から命じられました。
お焼香の長~い列にいた私は、左手に大型バスが止まるのを見ていました。そのバスから降りたのはジャイアンツの選手たち。全員がユニフォーム姿でした。
川上監督や主力選手の姿を見た周囲がざわめきます。すると長嶋さんが私たちの行列に近づいてきて、なんと私の直前を横切ったのです。
「失礼します」といい、スッと軽やかに去っていったのです。そのあとに残った清涼感のある良い香りをいまでも覚えています。
たったそれだけの話!?なんて言わないでください。
長嶋さんという方はそれだけで心揺さぶる力がある人なんですね。
私にとっては宝石箱にしまっておきたいほど大事なことなのです。(笑)
背番号「3」~永久欠番
長嶋茂雄氏の背番号「3」は、読売巨人軍の歴史の中でも特筆すべき背番号です。よく知られている通り巨人の永久欠番となっています。
1番 王 貞治
世界記録となる通算868本塁打を記録。「一本足打法」で本塁打王15回、MVP9回など圧倒的な成績を残しました。
3番 長嶋 茂雄
「ミスタージャイアンツ」。勝負強い打撃と華麗な守備でファンを魅了し、巨人の黄金時代を象徴するスター選手です。
4番 黒沢 俊夫
日本プロ野球史上初の永久欠番。1947年に現役のまま腸チフスで急逝し、その功績と人柄を悼んで制定されました。
14番 沢村 栄治
日本野球界伝説のエース。プロ野球初のノーヒットノーランを達成。「沢村賞」の由来となっており、戦死した翌年に制定されました。
16番 川上 哲治
「打撃の神様」。日本初の通算2000安打を達成。引退後は監督として前人未到のV9(9年連続日本一)を成し遂げました。
34番 金田 正一
日本プロ野球最多の通算400勝を記録。元々は国鉄スワローズの選手でしたが、巨人在籍時の功績も含め引退時に制定されました。
- 現役時代 (1958年–1974年):
立教大学から巨人に入団した際、名手・千葉茂氏から譲り受ける形で着用を開始しました。1974年の現役引退とともに、巨人の永久欠番に指定されました。 - 監督時代 (2000年–2001年):
第2次監督政権の途中、2000年から自らの永久欠番である「3」を26年ぶりに復活させ、ユニフォームに背負いました。これは、広島から移籍した江藤智氏に当時の自身の背番号「33」を譲るため、またチームの士気を高めるための決断でした。 - 背番号の由来:
入団当初、川上哲治氏から「15」を勧められましたがこれを辞退し、結果として「3」を背負うことになりました。 - 追悼試合 (2025年):
2025年6月3日の逝去を受け、同年8月16日に開催された追悼試合(巨人対阪神)では、監督・コーチ・選手ら全員が背番号「3」を着用してプレーしました。
野球ファンの心に住んでいる「長嶋茂雄さん」のまとめ

長嶋茂雄さんは、単なる「プロ野球選手」という枠を超え、戦後日本の復興期から現代に至るまで、日本人に元気と夢を与え続けてきた「太陽のような存在」です。
多くのファンがなぜこれほどまでに彼を愛してやまないのか、その理由をいくつかの切り口でまとめました。
「記録」よりも「記憶」に残る華やかなプレー
長嶋さんの最大の魅力は、見る者を一瞬で釘付けにする圧倒的なスター性でした。
- 魅せるための工夫: 三振する時にヘルメットを飛ばして豪快に見せたり、サードの守備でわざと難しい体勢から送球したりと、「お金を払って見に来てくれるファンのために」という意識が徹底していました。
- 勝負強さの塊: 「ここで打ってほしい」という場面で必ずと言っていいほど打つ。1959年の天覧試合でのサヨナラ本塁打は、その伝説の最たるものです。
語り継がれる「長嶋ism(ナガシマイズム)」
彼の独特な言語センスや振る舞いは、今もなお多くの人に笑顔を届け、愛されています。
「我が巨人軍は永久に不滅です」
1974年の引退セレモニーでのこの言葉は、日本のスポーツ史上最も有名なスピーチとなりました。
- 独特の英語混じりの会話: 「バントの構えをして、そのままスッとドロー(引く)して…」「アイ・アム・失念!」など、理屈を超えた直感的な表現は、周囲を明るくする魔法のような力がありました。
指導者としての情熱と「松井秀喜」という遺産
監督としても、戦術以上に「情熱」と「直感」でチームを引っ張りました。
| 出来事 | 内容 |
| 10.8決戦 (1994年) | 中日との同率首位最終戦。「国民的行事」と呼び、見事に日本一へ繋げました。 |
| 松井秀喜の育成 | 四番打者の英才教育。毎日欠かさず素振りの音を聞き、大砲を育て上げました。 |
| ON対決 (2000年) | 王貞治監督との日本シリーズ。野球界最高潮の盛り上がりを作りました。 |
2013年:師弟での「国民栄誉賞」

2004年に脳梗塞で倒れるという困難に見舞われましたが、懸命なリハビリを経て公の場に復帰。2013年には教え子の松井秀喜さんと共に国民栄誉賞を受賞しました。
不自由な体になってもなお、東京ドームに足を運び、ファンに手を振る姿は、多くの日本人に「諦めない勇気」を与え続けています。
長嶋茂雄という存在は、野球というスポーツを「日本の文化」にまで押し上げた最大の功労者と言えるでしょう。
