ペナン島に移住していた3年の間に、クアラルンプールに3回行きました。
最初は観光目的と友達と会うのが目的で、2度目はパソコンが壊れてクアラルンプールの日本人会を訪ねたときなどです。
それでは写真を眺めながら思い出を綴っていきましょう。
クアラルンプール~こんなことがありましたっけ

まぁとにかく面白いことがたくさんあって、思い出になっています。今触れましたが、2度目のクアラルンプール訪問は難儀なことでした。
KL(クアラルンプール)行きのきっかけはパソコンの故障。その当時、ペナン島にパソコン専門の信頼できるショップがなかったため、PCを車に詰め込んでKLに行くしかなかったのです。
しかし知らない土地なので不安はあるものの、気分的には半ばウキウキ。こんな時でもなければひとりでKLまでのドライブなんてできないかも…という感じでした。
幸いマレーシアの高速道路網は完備されていて、片道300kmもさしたることではありませんでした。
※ただ、その時のKLで撮影した画像がどうしても見つからないのが残念。

行くのはいいとしても自分には難題がありました。
🚥 致命的な欠陥は「方向音痴」。知らない町の東西南北さえわかっていません。
🚥 この当時はカーナビなどなかったのです。
🚥 頼りにしたのはマップ。(右の図に近い紙もの。でも理解度は10%程度)
🚥 最後は”カン”で走り回るだけ!
結果、驚くべきことが起こりました。なんと全く道を間違えることなく、一発でKL日本人会についてしまったのです!
方向音痴の自分が、なぜ、一度も道に迷うことなく、また人に尋ねることなく目的地に到着するなんて!アンビリーバブル!
このことは、22年たったいまでも不思議でなりません。まぁ、思い出といえば思い出なんでしょうね。(^^♪
2002~2004年~クアラルンプールの記憶
ペトロナスタワーの役割とクアラルンプールの発展への影響

1998年に完成したペトロナスタワーは、マレーシアの首都クアラルンプール(KL)の象徴的なランドマークとして、その建築的・経済的意義が非常に大きい建造物です。
高さ452メートルを誇るこのツインタワーは、完成当時、世界一高いビルとして注目を集め、KLの国際的な知名度を大きく向上させました。
ペトロナスタワーは、単なる建築物ではなく、マレーシアの経済成長と技術力を示すシンボルとして、国内外からの投資を呼び込む役割を果たしました。
また、観光地としても重要で、年間数百万の観光客が訪れ、KLの観光産業に大きく貢献しています。
さらに、このタワーを中心に開発されたKLCCエリアは、ビジネス、ショッピング、文化施設が集積する都市のハブとなり、KL全体の発展を牽引する役割を担っています。
ペトロナスタワーは、クアラルンプールを世界都市へと押し上げる原動力となったといえるでしょう。
歴史的建造物「スルタン・アブドゥル・サマド・ビル」
この建物は、KLを代表する建物です。画像は2003年撮影ですが、現在は移転しました。
マレーシア・クアラルンプールの独立広場前(1897年)にあったこの建物の最大の魅力は、その独特な様式です。
「イギリス統治時代に、イスラム文化を意識して設計された“コロニアル+イスラム建築”」です。

イギリスの植民地時代(KL急成長期)の行政の中心
マレー連邦(1896年成立)の行政本部。
1957年8月31日にマレーシア独立時にイギリス国旗が降ろされ、マラヤ国旗が掲揚されました。
1978年以降:最高裁・高等裁判所が入居しました。
2000年代:行政都市プトラジャヤへ移転しました。
現在は国家遺産として保存され、文化施設として活用 されています。
この建物の最大の魅力は、その独特な様式です。
インド・イスラム風(ムガル様式)+ヨーロッパ建築の融合
玉ねぎ型ドーム(銅製)とアーチが連続する回廊が貴重。
高さ約41mの時計塔(“マレーシアのビッグベン”とも呼ばれる)
英国植民地政府の中枢機関が集結、マレー連邦(1896年成立)の行政本部。
独立の象徴的舞台
当時のクアラルンプールは急成長中で、この建物は「国家運営の頭脳」でした。
1957年8月31日。 独立時にイギリス国旗が降ろされ、マラヤ国旗が掲揚
現在は:国家遺産として保存され、観光・文化施設として活用。修復プロジェクト(2020年代)で再整備中。
マレーシア近代史そのものを体現する存在です。
当時のクアラルンプール駅のこぼれ話
2002年当時のクアラルンプール駅(Kuala Lumpur Railway Station)は、ちょうど「旧駅としての役割を終え、KL Sentral へ機能が移った直後」の時期でした。
そのため、当時と現在では“使われ方”も“雰囲気”も大きく変わっています。

2002年当時
現在は、KTM Komuter(近郊電車)が中心で、長距離列車はほぼ KL Sentral 発着になっています。
駅は保存建築として扱われ、観光名所的な位置づけが強くなっています。
1910年完成のムーア様式の駅舎は、現在もほぼ当時のままであまり変わっていません。
2001年に KL Sentral が開業した直後でした。
旧クアラルンプール駅は「主要駅」から「ローカル線中心の駅」へ格下げ。
まだ多くの列車が発着していたが、徐々に本数が減少。
駅構内は“使われているけれど、どこか静か”という雰囲気が残っていた時期でした。
<こぼれ話>
🚉 下の右の写真は、私がホームで撮影していたら、運転運転士さんが私に「運転席を案内しようか?」と連れて行ってくれた時のものです。
マレーシアは完全な「車社会」で、鉄道や駅がいかにのどかであったかを物語るものだという印象がありました。
🚉 左の画像はKLの駅舎でよく知られた重厚な建物です。

「マハティール博士の千の顔」写真展
2003年10月7日、ヤン・ディ・ペルトゥアン・アゴン(国王)トゥアンク・シエッド・シラジュディンが、クアラルンプールのジャラン・トゥン・ラザクにある国立美術館(National Art Gallery)で写真展「A Thousand Faces of Dr Mahathir(マハティール博士の千の顔)」を開幕されました。

筆者撮影の写真に映っているのは、この写真展の会場で展示を鑑賞するマレーシアの学生たちと思われます。壁には若き日のマハティール博士の大きな白黒写真が掲げられており、当時の雰囲気がよく伝わってきます。
マハティール首相は2003年10月31日に22年以上の在任期間を経て退任しており、 この写真展はその退任直前の時期に開催された、首相への大きな敬意の表れでした。
この展示会は、マハティール首相の22年間の在任期間を記録した印象的な写真を披露するため、地元メディア各社が協力して開催したものでした。
開幕からわずか2日間で6,000人の来場者を集めました。マハティール首相夫妻(シティ・ハスマー氏)に加え、ウガンダの第一副首相モーゼス・アリ氏の妻サラ・アリ氏、そしてトルコ大統領アフメット・ネジデット・セゼル氏の妻センラ・セゼル氏も出席しました。
同じ2003年10月中に、ペタリン・ジャヤの「ザ・ワン・アカデミー」がマハティール首相に自画像を贈呈し、さらにその功績を称えました。


<こぼれ話>
この写真展には小さな思い出があります。
会場に来ていた品の良い初老の男性から声をかけられました。「あなたは日本人か?」。
そうですと答えると、その方は少年時代に日本人から教わったという唱歌「さくら」を歌ってくれたのです。ちょっと感動しました。
それにしても、当時からマレーシアでは英語教育が定着していて、ごく普通の市民が3か国語を話すので驚きでした。
<MEMO>
第二次世界大戦中、日本軍は1941年末から1945年までマレーシアを占領しました。この期間、当時のマラヤと呼ばれていた地域は、日本軍の厳しい統治下に置かれました。占領初期には、イギリス植民地政府が崩壊し、日本軍政が迅速に導入されました。
日本軍は「大東亜共栄圏」の理念を掲げ、アジア人同士の協力を強調しましたが、実際には厳格な軍政と資源収奪が行われました。特に、ゴムやスズなどの重要資源が日本の戦争遂行のために大量に輸出されました。また、現地住民は強制労働や食料不足に苦しむこととなり、生活環境は非常に厳しいものでした。
さらに、日本軍は反日活動を防ぐために厳しい取り締まりを行い、特に中国系住民に対して弾圧を加えました。一方で、一部の現地住民や民族主義者は日本軍を歓迎し、独立運動の機会として利用しようとする動きも見られました。
この占領期はマレーシアの歴史において大きな転換点となり、戦後の独立運動にも影響を与えました。
画像は2003年当時の「戦争博物館(ペナン島)」

あの当時、日記とまではいかない”MEMO”みたいなものを書いていました。マハティール元首相の写真展の日はこんなことを書き残していました。推敲していない雑文ですが原文のまま載せます。
KLに行く目的のひとつがこれ、「マハティール首相写真展」。KLCCのすぐ北にナショナルギャラリーはある。ワクワクして朝一番で行ったが開場はすでにたくさんの人が集まっていた。
入り口にいた偉そうな人に、デジカメを提示して「日本語のサイトで使いたいのですが、撮影は許可されますか?」と聞いたらその方は場所を離れて5分待たされてOKが出た。聞いてみるものだ。
尊敬するマハティール首相の写真は想像を絶する点数だった。良くぞこれだけ撮ったものと感心した。ただ、首相就任以前のものが少なく、少し残念だった。
しかし、22年間、マレーシアというより東南アジアを体を張って支えてきた「男」の生き様はひたすら敬愛の一語だった。56歳で引き受けた大役。当時のアジアを考えると、良くぞ22年間牽引されたと頭が下がるばかり。リタイアして孫と遊んでいても22年、茨の道へ船を漕ぎ出しても22年である。
マハティール首相はズケズケものを言うことで有名。西側に煙たがられる傾向もある。しかし、写真展を見てその交際の広さと深さ、就任当時生まれたある国の王子を成人の頃同じ笑顔で迎える。
ズケズケ言われた相手もやがて彼を自国に招き、馬で大地を駆け、ゴルフで時を楽しむ。
歯に衣着せない意見には耳障りの悪さを越えた真実があったことを誰もが認めた証拠でもある。世界中にこれほど知られた名政治家もざらにはいない。解りやすく交際の幅を例えよう。この間、日本の首相が13人替わっている。鈴木、中曽根、竹下、宇野、海部、宮沢、細川、羽田、村山、橋本、小渕、森、小泉。
感動に身を埋めていたらあっという間に3時間が過ぎた。でも、まだ帰る気にはならなかった。このイベントは11月も開催しているはずだ。写真左下は、2002年6月の党大会。一年後の引退を示唆し、周囲に慰留されているところである。
ホテルの中にジェットコースター!?
2003年10月にクアラルンプールで開業したばかりだったホテル「ベルジャヤ・タイムズ・スクエア・ホテル(Berjaya Times Square Hotel)」に宿泊した時の思い出です。
皆さん信じられますか?ホテルの中に遊園地があるなんてね!
話題を呼んだので家内と行って泊まってみました。

とにかくインバウンド狙い、すべてが新システム、部屋のキーはカード式でしたが、フロントで言われた部屋に行ってみたら別の先客がいてビックリ!
そんなことがありましたね。
右の写真にある「Cosmo’s World(コスモズ・ワールド)」という看板は、ホテルと同じ建物内にある屋内型テーマパーク(現在はベルジャヤ・タイムズ・スクエア・テーマパークに改称)の当時の名称です。
右にいる青年はペナン島で知り合った「シルベスタ」君。このホテルに長距離バスに乗ってわざわざKLまで行ったのは、彼の新しい仕事場訪問(転職祝い)という意味があったんです。
島にいたころから仲が良くて、彼にそのホテルの就職記念に「ベルディ・ウオッチ」をプレゼントしたのを思い出しました。
「ホテルの中を走るジェットコースター」の正体
このホテルは、巨大なショッピングモール、屋内テーマパーク、そしてホテルが一体となった当時「単一フェーズで建設された世界最大のビル」という触れ込みの複合施設内にありました。
- コースター名: スーパーソニック・オデッセイ(Supersonic Odyssey)
- 特徴: 全長800メートルの巨大なレールが、建物の5階から8階にかけての吹き抜け空間を縦横無尽に駆け抜けます。
- インパクト: ホテルの宿泊客やショッピングモールの利用者のすぐ頭上を、悲鳴とともにジェットコースターが通り過ぎる構造は当時非常に画期的で、クアラルンプールの新しい象徴として大々的に宣伝されていました。
<このホテルの現在>
現在も「ベルジャヤ・タイムズ・スクエア・テーマパーク」として営業を続けており、あの黄色いレールのジェットコースターも現役で動いています。ホテル自体もクアラルンプールの老舗大型ホテルとして親しまれています。(画像は開業当時のもの)


今回の「昔々のおとぎ話のようなKLの思い出」はいかがでしたか?
また古き良き「ペナン島~マレーシア」の記憶を辿って紹介します。ぜひご覧ください。

