古き良きペナン島へタイムスリップ

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今日は2002年から2005年ころのペナン島へタイムスリップしてみたいと思います。ざっくり言って、あの頃のペナン島の雰囲気、観光地、居間と違う環境やジョージタウンの状況などお話ししましょう。

あの時、私移住が移住しようと決めたときの候補地はたくさんありました。別なページで「セカンドライフのススメ」にあるような受入国もほとんどあり実際には迷っていました。
しかし、①あまり観光客でゴミゴミしていないこと、②諸物価が経済的で金銭的にゆとりが持てる国、(ゴルフを夫婦でたっぷり楽しめるために)、③全体にのんびりしたムードがあり、海があること、④適当に近代化が進んでいること、⑤人々がフレンドリーなことなどが条件に上がっていました。

そうして絞り込んだのが「ペナン島」だったのです。

海外移住のススメ~セカンドライフとは
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21世紀初頭のペナン島へ Let’s Go!!

2002~2005年ごろのペナン島は、「すでに人気はあるが、今ほど“世界的な遺産観光地”として洗練され切ってはいない島」でした。
ジョージタウンも、2008年のユネスコ登録前で、観光の主役はまだ食・ビーチ・ローカルな街歩きで、今のような“遺産都市としてのブランド”はこれから形になる段階でした 。

素朴で牧歌的な古き良きペナン~開発の波が来る前

シーサイド

当時の島全体の雰囲気は、のんびりした海辺のリゾート感と、古い華人系商店街や屋台街の生活感が同居する場所でした。
特にバトゥ・フェリンギは、1970年代から続くビーチ観光の中心で、夜店市やレストランが並ぶ「典型的な海辺の観光地」として有名でした。

ただ、今のように観光客向けにきれいに整えられた印象というより、ローカルの暮らしがそのまま前面に出る感じが強かったですね。
2010年代後半以降に強まる“遺産修復されたフォトジェニックな街”というイメージより、当時はもっと雑多で、食堂・市場・古い建物・交通量の多い道路が混ざった空気でした 。そこが良かったんですね。

観光地の中心はザックリ3か所

ジョージタウン
もっともわかりやすい街中のコロニアル様式(英国領時代の名残)
海岸

観光の柱のひとつめはバトゥ・フェリンギ周辺の海岸リゾート(写真上)。続いてジョージタウンの街歩き、それから朝市、夜市やローカルの食文化です。

朝市や食(B級グルメの宝庫)については後述しますが、味も値段も種類もすべて「ピンからキリまで」、ここは「マイウ島」。

街中
大好きなコロニー時代のイメージの街風景
2005年以降、すさまじい勢いで開発が進むペナン島

とくにジョージタウンは、今のように「ユネスコ世界遺産の街」として世界中に売り出される前でしたから、古いコロニアル建築やショップハウスは魅力ではあっても、観光ブランドの中心ではありませんでした。
2008年の登録で状況が大きく変わったため、2002~2005年はまだ“再評価される前の旧市街”という位置づけに近い感じでした。

当時のペナンは、東南アジアの中ではかなり個性的な島でした。理由は、単なるビーチリゾートではなく、食文化、華人系の都市文化、英国植民地期の建築、マレー・中華・インドの混在が一体になっていたからです 。

当時のペナンは一方で、観光地としては少し「古びた良さ」がありました。ペナンは1990年代から2000年代初頭にかけて、同じく人気だった他の島リゾートに比べると、都市の整備や観光の更新がやや遅れていたからかもしれません。

世界的には、まだ「世界遺産の街」としての名声はありませんでした。国際的な知名度の中心は、むしろ“食の島”、“多文化の島”、“そこそこ有名なビーチと街B級グルメの目的地”という範囲だったと考えるのが自然です 。

ただ、完全に無名ではなく、欧米や地域の旅行者の間では「美食」「安価」「多文化」「古い街並み」が評価されていました。

和食は高級モノがあり、ネタの質もよい
ヨーロッパ系の観光客が多かった。アメリカ人少な目

2004年末のスマトラ沖地震・津波の際には、バトゥ・フェリンギの観光帯が被害を受けつつも、ホテル被害は限定的で、旅行者が滞在を続ける様子も報じられています 。

自宅のバルコニーから見えた津波。
津波被害の直後の映像。10名近い方の遺体があった。

<MEMO>
2004年12月26日に発生したスマトラ島沖地震は、マグニチュード9.1~9.3と記録され、インド洋全域に大規模な津波を引き起こしました。この災害は、アジアやアフリカの沿岸地域に甚大な被害をもたらしましたが、その中でマレーシアのペナン島も例外ではありませんでした。

ハイビスカスペナン島では、津波による被害が報告され、多くの人々が命を落とし、負傷者も発生しました。公式な記録によると、ペナン島では52人が亡くなり、199人がけがを負ったとされています。特に沿岸地域や観光地で被害が集中し、多くの住民や観光客が影響を受けました。

この未曽有の災害は、地域住民に深い悲しみと影響を与えました。同時に、津波警報システムや防災対策の重要性を改めて認識させる契機ともなりました。被害を受けた方々への追悼とともに、今後の防災意識向上への取り組みが求められています。

今、懐かしむ~ペナンとジョージタウン

伝統的な造りの木造家屋。当時からパソコンや携帯電話は広く普及し、とても使いやすくその上、月々の使用量も極安だった。もちろん国際電話もできた。

ジョージタウンは、今よりかなり「普通の古い港町の中心部」に近い印象でしたね。
2008年のユネスコ登録後に本格化する保存・再生・観光化の流れはまだ前段階で、当時は歴史的建築の価値が十分に“観光商品化”されていませんでした。

そのため、今のようなストリートアート巡りや遺産ゾーンの散策が大きな定番になる前で、街の魅力はもっと地味で、古い商店、屋台、寺院、生活の気配そのものにありました。のちに「失われかけた街並みを保存する」動きが強まったのも、この時期の都市環境が背景にあります 。

今思い起こしても美しかったコロニアル建築の街並み
この白い建物はハードウイック・ハウスです。

右の写真の歴史的建造物はハードウィック・ハウス (Hardwicke House)で、1887年に建てられた歴史的な邸宅です。 現在レストラン(ビストロ)として営業しています。ジョージタウンのユネスコ世界遺産エリアに近い場所に位置しています。

ヤシの木

当時のペナンは、東南アジアの中ではかなり個性的な島でした。理由は、単なるビーチリゾートではなく、食文化、華人系の都市文化、英国植民地期の建築、マレー・中華・インドの混在が一体になっていたからです 。

とにかくパンがうまかった。イギリス式の本格派。
このころからスターバックスは大人気でした。

ここの住民たちは共稼ぎが多く、圧倒的に「外食」中心なので、家のキッチンも最小限度だったようです。(地元の人たちはもっぱら屋台)
そうなると外食産業は安定成長。うまい店は流行り大儲けで御殿に住めます。自然に競争が激しくなりうまい店があっちにもこっちにも。うまい店しか残れないことに。

そのうえ基本がたくさんの国、たくさんの民族社会なので世界中の旨いものが町にあふれます。


当時のペナンは、東南アジアの中ではかなり個性的な島でした。理由は、単なるビーチリゾートではなく、食文化、華人系の都市文化、英国植民地期の建築、マレー・中華・インドの混在が一体になっていたからです 。

まとめ~ペナン島が今と異なる点

今と比べると、いちばん大きい違いは「観光の主語」が違うことです。
今のジョージタウンは、遺産保護、カフェ文化、アート、ブティックホテルなどが前面に出ますが、2002~2005年はまだビーチ、屋台、雑多な街の空気が主役でした 。

もう1つは、ビーチの見え方です。
2002年の津波以前・以後でバトゥ・フェリンギ周辺の海岸線の印象は変わり、2004年の津波後には砂浜の状態が悪化したという記述もあります。つまり、当時の「海辺のペナン」は、今よりも自然条件に左右される観光地でした 。

上の画像はペナン島のタイ式寺院「ワット・チャヤマンカララーム」です。
寝釈迦仏寺院として知られ、世界で3番目に大きいといわれる全長33mの黄金の寝釈迦仏が安置されているの。
本堂の前には、画像に見られるような巨大な龍や、7つの首を持つヘビなどの極彩色の像が飾られています。この寺院は歴史的観光地として人気があり、入場は無料です。

当時の日記(MEMO)~思いつくままに

今回の締めくくりに、筆者がメモ代わり(移住者目線)で書いていた日記をご紹介します。100㎡超で家賃54,000円という、格安コンドミニアムの警備は24時間でした。警備の方との小さな交流です。
思いつくままに書いていましたから、あまり文章にはなっていません。いわゆる殴り書きの記録です。(^^♪

🖊️ 「スラマッパギ」

「Selamat pagi」はマレー語で「おはようございます」。

私たちが住むコンドミニアムはA棟からF棟まであり500所帯以上が住んでいる。セキュリティは常時5人程度が24時間交代で警備を行い、管理事務所に4人、庭師は専属で3人、清掃担当も8人くらい、そのほか良く役目のわからない何でも屋のような人もいる。
日本のマンションとは少し異なり管理は大変そうだ。プールとプールサイドの庭園があるせいだろう。

ハイビスカス 彼らと何度も顔をあわせているうちマレー語で挨拶したくなった。日本でも外国人が日本語を話してくれると、なんとなく微笑ましく感じる。ここにいれば私も外人。挨拶程度なら通じるだろう。すぐに本を読んで学習した。

ある日の朝、出かけるときのこと。ゲートを通過する車の中からいつも顔をあわせているセキュリティに言った。「Selamat pagi!」。
一瞬驚いた顔をしたがすぐ「Selamat pagi」を返してきた。
日頃、英語で他愛のない話はするが、突然マレー語(というほどでもないが)で挨拶をしたので面食らったようだった。

その後、その挨拶はすっかり定着した。庭師にも掃除係りにも手当たり次第に使った。彼らの返事は時折「Pagi!」になったりする。「おはようございます」に対し、「おはよう」という感じであるらしい。「Pagi、Pagi」と繰り返したりする。

 ハイビスカス 少し横道にそれるが、日本からここに来たときから、ほぼ100%のひとたちが「笑顔」を返してくれるのでとても感動的だった。街中で目が合ったりしたとき、にっこり微笑むと年齢に関係なく皆にっこりする。手を上げて挨拶すれば向こうも必ず手を上げる。挨拶には寛容な国民性が如実に出る。はっきり言って日本とはぜんぜん違う。

日本ではうかつに知らない人といきなり挨拶は交わせない。「こいつ何者?」「何か下心でも??」と警戒心が先立つ。なぜだろう?経済的に豊かになったせいなのかな。

  一般的に市民は高齢者と外国人に親切である。挨拶なら日本語で話せるマレーシア人は多い。「オハヨーゴザイマス」と言ってくれる人もいる。こちらはマレー語で相手は日本語。奇妙だがこの国らしいといえばそのとうりである。

日本軍の統治下にあった3年半。その後もSOGO、YAOHAN、JUSCO、ISETAN、TOYOTA、TO’RAY、HITACHI、SHARP、KINOKUNIYAなど、マレーシアへの貢献と協力を果たしている日本企業の進出で、ここには日本人がたくさん暮らしてきた。
彼らには土地に受け入れられ溶け込んできた努力と苦労があるのだろう。

時々、我われ夫婦に声をかけてくれる年配者もいる。日本軍がいた頃の子供時代を語る。最後は必ず日本の「国歌」と「さくらさくら」を歌ってくれるというパターンが多い。
その時代を思うと少し哀しい気もするが、中には「日本人は親切だった」「学校を作ってくれて感謝している」という人もいてちょっと驚いた。

ある日、行きつけのPC屋の店員に挨拶したときだった。彼らはにこにこして挨拶したが時計を見ている。
「変かい?」そういうと「Selamat tengahari(トゥンガハリ)がベターだ」という。「なにそれ?」と聞くと、「昼前後はそう言うのさ。それから昼休み後(こちらはpm2時までが多い)はSelamat petang(プタン)」。そういえば本にそんなことが書いてあったな。記憶力の悪い私はひとつしか覚えられなかったのである。何とかの一つ覚え。

家に戻って再び本を開いた。「Terima kasih (トゥリマ カシ)」で<ありがとう>。それに対して「Sama-sama(サマサマ)」<どういたしまして>はセットで使う。

「Selamat berkenalan(スラマッ ブルクナラン)は<はじめまして>で、「Selamat Tinggal(スラマッ ティンガ)」がさようならとなる。因みに、<新年おめでとうございます>は「Saramat Tahun Baru」という。

ハイビスカス ペナンには『すし金』という回転寿司チェーンがある。看板には「Sushi King」と書かれている。うまい当て字を考えたものだ。
店に入ると店員さんたちが一斉に「イラサイマセ」という。少し発音がおかしい。「ラ」の後の小さい「ッ」がない。
ゴルフのとき長くこちらで暮らしている日本人はキャディーさんに「lapan(ラパン=8番アイヤン)ちょうだい」なんて言っている。カッコイイ。

それにしても小学校1年生から一部の教科を英語で実施しているだけに、街のどこでも英語が話されていることはすごい。特に年配の人ほど教科が多かったらしく良く話せる。大したものだ。

一方、日本では英語を必要としない。仕事か何か必要に迫られた一部の人以外、日本語だけで何の不自由もない英語不要国なのである。
ペナンは人ごみに行くとマレー語はもとより、中国語・ヒンドゥ語・英語・タイ語が飛び交う面白い町だ。<2004.1.15>

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